人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2012/05/17  (連載 第36回)

「徳を鍛える」

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

「人間はその死後に直接的な影響力を行使することはできない。これは太宗とて も同じである。では全く何の影響力もないのか、決してそうではない。その人 の死後、人びとは何でその人を量るのか。それは権力でもなく、社会的な地位 でもなく、いわば「人格的な力」ともいうべきものであることを、太宗は知っ ていた」

 上記は、「帝王学(『貞観政要』の読み方)」山本七平著(日経ビジネス文庫 刊)の一節です。
 ここで太宗とは、唐の時代の二代目の皇帝太宗李世民のことです。太宗は唐の 二代目として良く国を治め、太宗が統治した626年から649年は「貞観の治」 といわれました。貞観(じょうがん)とは、太宗の年号であり、政要とは政治の 要諦という意味です。
 このころ日本は遣唐使を送り、中国の文化から多くを学びました。貞観政要は 「帝王学」として読まれ、上記著書によれば貞観政要から学び実践した代表的人 物として「北条政子」と「徳川家康」を挙げています。

 「貞観政要」の有名な一文に、「創業と守成いずれが難きや」と太宗が臣下に 問う場面があります。
 創業時代からの腹心である房玄齢(ぼうげんれい)はつぎのように答えました。

「創業のときとはいわば乱世で、群雄が競い起こります。それを次々に攻め討っ て降伏させ、いわば勝ち抜き勝負でこれを平定しました。こういう点から見れば 創業の方が困難です」

 これに対して、元は敵の参謀であった魏徴(ぎちょう)はつぎのように答えま した。

「新しい王朝が起こるのは、必ず前代の失政による衰え・混乱の後をうけ、その ようにした愚鈍で狡猾なものを打倒します。すると、人びとは新しい支配者を推 戴(すいたい)することを喜び、一応、天下がこれに従います。これが『天授け 人を与う』(孟子)であって、天からさずかり、人びとから与えられるのですか ら、それほど困難とは思われません。しかし、それを得てしまうと、驕りが出て 志向が逸脱します。すると、人びとが平和と安静を望んでいるのに課役がやまず、 人びとが疲弊・困憊(こんぱい)しているのに、支配者の無駄で贅沢な仕事は休 止しません。国の衰亡は、常にこれによって起こります。こう考えますと、守文 の方がむずかしいと思います」

 二人の臣下の答えを聞いた太宗は次のように答えます。

「房玄齢は、私と共に乱世に打ち勝つのに大変苦労した。その経験があるから創 業が困難だと見るのだろう。一方魏徴は、平和の持続と政権の維持を私と共に勉 め、驕りと逸脱の兆候があれば必ず危機に遭遇すると常に考えている。これが守 文(維持)の方が難しいと考える理由であろう。共に一理あるが、今や創業の困 難の時は去った。これからは守文の困難さに、諸君と共に慎重に対処したいと思 う」

 魏徴は、太宗の傍らにいつもおり、君主に驕りや逸脱の兆候が見られるたびに 遠慮なく直言し、太宗はその魏徴の直言に耳を傾けました。魏徴は、かつて太宗 の兄である皇太子建成の忠臣として、太宗の抹殺を画策した仇敵でした。にもか かわらず太宗は、魏徴を諫議大夫(かんぎたいふ=過失をいさめる役)に任命し ていることは驚きます。
 太宗は、このことについて近臣との宴席で話しています。

「確かに魏徴は以前は実に我が仇敵であった。だがその仕えた者に、心から誠心 誠意仕えたことは立派だといわねばならない。私はその魏徴を抜擢して用いた。 これは昔の立派な人の行為に比べて恥じることのない行為だと自負している。そ して魏徴は期待にたがわず、私がいやな顔をしてもかまわず強く諌め、私が非を なすことを許さなかった。これが、我が魏徴を重んずる理由である」

 太宗は、上記のように守文(維持)のために自らを律し、直言する臣下を重ん じた結果、約300年続いた唐の時代の基礎を築きました。貞観政要は、守文 (維持)に力点を置いた帝王学と言えそうです。唐の前の時代、隋は30年の短 命でした。太宗は、この隋の栄枯盛衰を目の当たりにして自らの姿勢をいつも点 検できる体制をとりました。
 諫議大夫であった魏徴が亡くなった時、太宗は言います。
 
「鏡があれば衣冠を正すことができる、同じように昔を鏡とすれば歴史によって 世の興亡盛衰を知って自らを正すことができる。鏡にできる人を鏡とすれば、そ の人によって善悪当否を知ることができる。自分は三つの鏡で常に自らの過ちを 正してきた。ところが今、魏徴が死んで、とうとう鏡の一つがなくなってしまっ た」

そしてしばらくの間、涙を流して悲しんだとあります。

 太宗は、自分が弱い人間であることを自覚していました。弱いが故に平安な時 代を迎えると無駄や贅沢をする自分がいることを知っていました。その度に魏徴 から直言され、我に返ったといいます。
 維持のために必要なこと、人びとが治世者を見て「人格的な力」をどう評価す るか。その人の徳行を評価している民衆、そこに合格点をもらえるよう努力した 結果、太宗は中国史上最高の名君の一人として称えられているのでしょう。
 「人徳」は、生まれながらに持っているものもあるでしょう。しかし、太宗の 治世は、自らを律し「徳を鍛え」続けていたのではないでしょうか。

 本書の解説は、中国文学者の守屋洋氏が行っています。守屋氏による貞観政要 の要約が参考になります。
「貞観政要」の帝王学は、要約すると次の5項目になるであろう。
  第一は、「安きに居りて危うきを思う」
  第二は、「率先垂範、我が身を正す」
  第三は、「臣下の諫言に耳を傾ける」
  第四は、「自己コントロールに徹する」
  第五は、「態度は謙虚、発言は慎重に」

 安泰なときや好調なときほど、将来の危機に思いを致して、いっそう気持ちを 引き締めることをいつも言い聞かせ、率先してみずからの姿勢を正すことにつと めていた太宗。そして、臣下の人選、体制作りによって維持の仕掛けが出来上が ったようです。
 鎌倉140年、徳川270年の長期政権が誕生したのも、北条政子と徳川家康 が貞観政要を学んだことが、重要な要因であったろうと著者である山本七平氏は 述べています。
 「徳のある人」に人びとは魅力を感じ、何かで失敗すると「私の不徳の致すと ころで」と謝罪する。「徳」とは、資質ではなく、自ら努力して鍛えるもののよ うです。
 著者である山本七平氏は、本書を執筆したのが1983年、同じ年に「人望の 研究」という書も出されています。彼もまた、徳を身につけようと歴史に学び、 努力された人と言えます。
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