人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2012/11/15  (連載 第42回)

「三人寄れば文殊の知恵」

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

 「三人寄れば文殊の知恵」
 大辞林によれば「平凡な人でも三人が協力すれば、よい知恵が出るものだ」とあります。「寄れば」を単なる「集まり」とせずに、「協力すれば」と訳しているところに深い意味があるように思います。
 

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 徳川家康は、三人で協力して運営する組織を基本とすることで、一人が独断専行することなくバランスのとれた運営を行いました。岡崎を拠点としていたころ、岡崎の城下町に「町奉行」というポストを設け、城下町に住む人々の民政を行いました。家康は、この時三人の町奉行を任命しています。
「ホトケの高力、オニの作左、どっちつかずの天野三郎兵衛」
と自ら称し、ホトケのようにやさしい思いやりのある高力清長、気の短い本多作左衛門重次、そしてホトケでもオニでもないその中間をいく天野康景の三人を任命しました。何故、この三人を任命したのかと言えば、
「住民の訴えを聞いたり、面倒なことを処理するときには、ホトケの心をもった高力と、厳しい本多と、中立的な立場に立つ天野の三人がよく相談して決めることが大切だ」
と考えたからです。

 タイプの異なる三人を配置して「その三人がよく協力すること」まさに「三人寄れば文殊の知恵」を実践する組織を形成しています。
 

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 家康のこの三人体制は、随所に配置されました。 岡崎城に設けた宿直制度も三人体制としました。
 宿直は、夜中に何か事があった際の役割ですから、層々ことが起こるわけではありません。そこで三人がいても暇をもてあまし、緊張の持続は難しくなります。
 ある時、家康は「毎晩交代で宿直をしている武士たちはご苦労だ。一つねぎらってやろう」と差し入れの食べ物を持って宿直室を訪ねました。ところが、宿直室には一人の武士しかいません。
「他の連中はどうした?」
 他の二人は、岡崎城下の歓楽街に遊びに「あとを頼むよ」といって出かけていました。

 ここで、家康の組織を維持・統制するための真骨頂が発揮されます。
「おまえはなぜ一緒に遊びに行かないのだ?」
「せめて一人でも残っておりませんと、いつ何が起こるかわかりませんので」
「いまからでも遅くはない。おまえもすぐ岡崎の遊郭へ遊びに行け。宿直はおれがする」
 家康は、遠回しな叱責をしながら、宿直は自分がするといってきかないので、武士はその場を出て、外にいる二人を探し、このことを伝えます。驚いた武士たちは、厳罰を覚悟して城に戻りました。
「おう、戻ってきたか」
 そう言って、自分が持ってきた食べ物を広げ、
「さぁ、一緒に食おう。どうだ?遊郭はおもしろかったか?」
 二人は恐縮しきって、
「申し訳ございません。どのような罰にも服します」

 ここで家康は、食べ物をほおばりながら、ぽつんぽつんと話しだします。
「新しく岡崎奉行に任命した三人の武士は、おまえたちの先輩だ。三人はいまも交代で奉行所に勤めていて、町では評判がいい。タイプの異なる三人がよく相談して物事を決めることが大切なのだ。城のほうに宿直員を置いたのは、もし町で何か起こったときに奉行から連絡が来て、当然わたしのところにも報告がある。その仲介者としておまえたちに仕事を頼んでいるのだ。毎晩何もなければ一人残して、あとの二人は遊びに行ってもいいだろうと考えるのは当然だ。
 が、ものは考えようだ。たとえば一人残った者に、町奉行所から報告があったとする。しかしその報告内容も、三人いればああでもないこうでもないといろいろ議論をして、いろいろな見方ができる。町で起こった出来事というのはそういう複雑な性格がある。そういうときに、一人いればいいだろうということで二人が欠けてしまえば、その事柄に対する見方が一方的になってしまう。おれが心配するのはそういうことだ。頼む。大変だろうが、やはり無駄でも三人で宿直を勤めてくれ」
 この話を聞いた三人は、恐縮し、宿直の三人体制の意味を理解し、
「本当に申し訳ございませんでした」
と謝りました。
 家康は、ニコニコして、
「このことは、ここだけの話だぞ。おれもだれにも言わない。おまえたちも決して他人に言ってはならない。もちろん上役にも言うな」
と釘をさしました。

 戦国の世にあっても徳川家康の部下たちは、「この殿さまのためなら、命を捨てても惜しくはない」という忠誠心で、結束力が強かったと言われます。
 

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 徳川幕府となってからの組織は、三人体制をさらに進化させます。トップグループである老中職や諸奉行、大目付、若年寄に「月番」を設け、月番になったときに仕事をして、月番以外の時は自分が当番だった時にたまった仕事を処理する体制をとりました。このことで「合議制をとりながら、実は一人ひとりの責任もはっきりさせる」仕掛けを設けました。
「今月の月番は、先月の月番よりも劣っている」
「先月の月番に比べると、今月の月番のほうが決断が早い」
などという評判がたち、複数の管理職たちは、いきおい競争せざるを得ない状況となったのです。

 こうした体制をつくったことで260年という長い年月を維持することができた徳川幕府。
「平凡な人でも三人が協力すれば、よい知恵が出るものだ」
 協力し、切磋琢磨する組織を作ること。企業においても重要なテーマだと思います。もちろん、今の政治にも期待したいことでもあります。

 (参考文献:『信長・秀吉・家康の研究 乱世を制した人づくり、組織づくり』 童門冬二著、PHP文庫(電子版))

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