人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2015/02/17  (連載 第69回)

60歳を迎える前に考える「人生論」

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

「人がまず最初に考える人生唯一の目的は、自分という一個人の幸福である。しかし、個人にとって幸福などはありえない。もし、人生になにか幸福に似たものがあるとしても、そこにだけ幸福の考えられる人生 ―― 個人の人生は、一挙一動、つく息ひく息のそのたびにずるずると苦痛や災厄や死や破滅のほうにひきずられていって、ひきとめるすべもないのである。」
 なんだか穏やかでない書き出しになりました。
 私は今月59歳を迎え、来年いよいよ節目と言える60歳になります。かつて在籍した会社の同期入社の人の中には、60歳を迎え、定年退職を選択する人、継続勤務を選択する人、とそれぞれの道を選択する必要に迫られる人も出始めました。
 そんな時期でもあり、改めて「人生とは?」をテーマに考えてみたいと思いました。冒頭の言葉は、トルストイの『人生論』(角川文庫)から引用したものです。

 トルストイの代表作といえる『戦争と平和』は40歳の頃、『アンナ・カレーニナ』は40代の終盤に世に出していますが、その後トルストイは人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなったと言われています。『人生論』は、そのような葛藤から生まれた作品で「宗教とは?」「科学とは?」そして「人生とは?」を自答しながら、まるでもがき苦しんでいるような文章が目に飛び込んできます。正直読み続けるのに疲れ、放り出したくなるような文章が続きます。
 途中ふと、巻末にある解説を読んでみました。
 「トルストイのこの『人生論』は1886年から1887年にかけて書かれたものだという。60歳に手がとどこうというときであった。既に大作『アンナ・カレーニナ』は数年前に完成していた。しかし最後の長編『復活』の執筆はまだ開始されてはいない。脂の乗りきった時期であったといっていいだろう。その意味においてこの時期のトルストイは、円熟しているわけでも枯れ切っているわけでもなかった。とても老トルストイの晩年などとは呼ぶことはできない。かれの頑健な肉体のうちには動物的な生気がみちあふれ、いつまでも活動してやまぬ頭脳には、天をも衝くばかりの思考の乱舞が演じられていたはずだ。そのトルストイのエネルギーが、この『人生論』には横溢している。天国と地獄をかけめぐる伸展力のあるイマジネーションが噴出している。」
 「人生とは何か」という、人間として生きる以上、誰しもが考える命題、しかし明確な答えが返ってくるわけではない命題に対して、トルストイも同じ人間として、葛藤しながらも正直な気持ちを書き綴っていることに納得し、最後まで読んでみました。トルストイは言います。
 「おまえはすべての人がおまえのために生きるのを望んでいるだろう?すべての人が自分自身よりももっともっとおまえを愛すのを望んでいるだろう?」
 理性の意識は、こんどこそ、はっきりと力強く語りかけるに違いない。
 「おまえのこの望みがかなえられるような状態は、ただ一つしかないのだ。それは、すべての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそう他人を愛すような状態である。そのとき、はじめて、すべてのものがすべてのものによって愛されるようになるだろう。もちろん、おまえも、そのひとりとして、望んでいたとおりの幸福を手に入れることになるだろう。こうして、すべての人が自分より他人を愛するようになるとき、はじめて、おまえが幸福になれるとすれば、おまえも、人間のひとりとして、当然、自分よりも他人をいっそう愛さねばならぬはずではないか」
 動物的な本能からは、自分を誰よりも愛し、自分の幸せを求めようとするけれども、人間に与えられた“理性”という力によって、「自分よりも他人を愛する。自分の幸せでなく、他人の幸せを求める。」これが「人生」である。トルストイは、この結論を導くために過去の賢者の教えを引用しています。
 「人生とは、人々の幸福のために、天から人々のうちにくだった光が、あまねくゆきわたることである」紀元前6世紀に孔子はこういった。
 「人生とは、ますます大きな幸福にたえず到達しようとする魂の遍歴であり、完成である」おなじ時代のバラモンたちはこういっている。
 「人生とは、幸福な涅槃に到達するために、自分をすてることである」孔子の同時代人、仏陀はこういった。
 「人生とは、幸福になるために、謙遜と卑下とに徹する道である」やはり孔子の同時代人である老子はこういっている。
 「人生とは、神の掟をまもりながら人が幸せになれるように、神が人のうちに吹き込んだ生命の息吹である」ユダヤのある賢者はこういっている。
 「人生とは、人を幸福にする理性にしたがうことである」ストア派の人々はこういった。
 「人生とは、人を幸せにする愛 ―― 神と隣人に対する愛にほかならない」
先人のすべての教えをひっくるめて、キリストはこういった。
 トルストイの『人生論』を読んで、自分自身を振り返り、また先輩や同僚の活動を思い浮かべ、いろいろと考えさせられました。

 私自身、ともすれば動物的な本能が前面に出て、「自分自身の幸せ」を追い求めている部分があります。その姿は、どこか後ろめたく虚しさも感じます。にもかかわらず、そんな個人の幸せを求める自分がいることを認めざるを得ません。一方、iSRFやITHRD(IT人材育成協会)で活動する先輩方の姿を思うに、私利私欲でない純粋な社会への貢献を願って活動している、そんな姿に尊敬の念を抱きます。人は、他人を評価する際、「他者への貢献の度合い」を相当な比重で判断しているのではないでしょうか。トルストイの言葉を借りれば、個人の幸せを求める”動物的な本能”に打ち勝ち、他者の幸せを優先する”人間的な理性”に基づいて行動できる人、このような人が「幸せな人生」を送れることになるのだと思います。

 作家 五木寛之さんは80歳になった時に『新・幸福論~青い鳥の去ったあと~』を執筆しています。その著作の「おわりに」で次のように書いています。
 幸福のイメージは、時代とともに変わります。世代によってもちがう。男性と女性、民族、職業によっても異なります。百万人の人間がいれば、百万通りのちがう幸福がある。それを承知で、あえて幸福について正直な感想をのべてみました。わかっていることは、いま新しい幸福感が生まれつつある、ということです。一般的な幸福というものはない。それぞれに自分の幸福を手探りで探すしかない。それを試みる自由があるということ、それが何よりの幸福だと思われてなりません。
 トルストイは60歳を前に『人生論』を、五木寛之さんは80歳にして『新・幸福論』を世に出しています。そして、両者の作品に共通するテーマは、「死」と向き合いながら、人生について語っていることです。平均寿命の伸長からすれば、私はまだ「人生」を語れる年齢に到達していないようです。
 目の前にある課題、少しでも理性に基づいた行動をできるよう精進すること、そのなかから何か見えてくるのかもしれません。


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