人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2016/09/21 (連載 第88回)

「ありのままの自分」を受け入れるな

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治


 「ありのままの自分」を受け入れるな
 「本当の自分」を探してはいけない
 「あるがまま」がよいとはかぎらない
 素のままの自分を出してはいけない

 これは、「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」(早川書房刊)の目次の一部です。著者は、ハーバード大学で「古代中国の倫理学と政治理論」を教えているマイケル・ピュケット教授とその授業を聴講した記者のクリスティーン・グロス=ロー。ピュケット教授の授業は、「経済学入門」、「コンピュータ科学入門」に次いで学内3位の履修者数を誇るとのことで興味を持って読んでみました。
 ほとんどの人は、自分の心をのぞき込み、自分が何者かを知り、自分の人生がどうなるべきかを決めるのはいいことだと思っている。だから、どの職業が自分の個性や気質にもっともふさわしいかと思いをめぐらし、どんな相手が自分に似つかわしいかと思案する。そして、本当の自分や、就くべき職業や、運命の相手が見つかれば、充実した人生を送れるものと信じている。本当の自分をはぐくみ、幸せと繁栄と自己実現のための計画をまっとうしようと考える。
 ピュケット教授は、現代の人たちが持っている価値観を「自分探しをしている自分」と定義しました。このような価値観に対して、ピュケット教授は、中国の思想家から学び、「自分というものは、探すものではなく、つくるものである」と考えました。本書は、中国の思想家の言葉を学ぶというよりも、ピュケット教授の考え「自分というものは、自分でつくるもの」を中国思想家の言葉や思想を用いて、賛同を得ようとしているようです。授業の人気が高いのもその点にあるのではないでしょうか。

 孔子、孟子、老子、荘子、荀子、2000年以上も前に生きていた中国の思想家たちの思想を紐解き、その教えから学び、現代の私たちの生き方の参考にしようと本書は伝えます。
 自己実現者の目標は、自己を見つけることであり、内なる真に従って自己の人生を「忠実に」生きることだとされる。
 これが危険なのは、だれもが自分の「真」の姿を見ればそれとわかるはずだと信じ、その真実に従って人生を規定しまうことにある。自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己――自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていること――を基盤に未来を築いてしまう恐れがある。中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。わたしたちは、特定のときと場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものとみなしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。
 自分の可能性を高めるために、孔子の教え、「礼」を用いて、毎日少しずつ自分を変えていこうと説きます。
 鍛錬を積んではじめて、ふさわしい反応ができるようになる。・・・(人間としての道の)はじめは情によって反応し、終わりは義によって反応する。

 正しい反応を身につけるといっても、感情を克服したりコントロールしたりするという意味ではない。感情をいだくことは人間が人間たるゆえんだ。そうではなく、感情の修養につとめ、他者に対するよりふさわしい反応の仕方を習得するということだ。よりふさわしい反応の仕方が自分の一部になる。反応を磨けるようになれば、感情をむき出しにするのではなく、習得したふさわしい形で他者に応じられるようになる。反応を磨く手段は〈礼〉だ。
 ピュケット教授の授業を受けた学生は言います。
 新しい習慣を身につけて、自分のあり方を変えることは、本当に可能なんです。世の中をどうわたっていくか、世界にどう対応するか、他人とどう接するかは変えていける。わたしが学んだのは、習慣、つまり〈礼〉のもつこの力に習熟すれば、勝手に自分を枠にはめて無理だと思っていたものごとでも成し遂げられるということです。
 ここで紹介されている中国の思想家たちの思想は、時代背景や思想家個人の価値観の違いから時として矛盾します。その違いが顕著なのは、孟子と荀子です。
 孟子は、典型的な性善説で「人間の本性が善であるというのは、ちょうど水が低いほうへ流れていこうとするようなものだ。低いほうへ流れない水がないのと同じように。本性が善で ない人間はいない。」と説き、荀子は、典型的な性悪説「人の本性は悪であって、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある……また、生まれつき人をねたみ憎む 傾向がある……そうだとすれば、人の本性に従い、感情のままに行動すると、かならず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついには天下に混乱をきたす。」と説いています。

 ピュケット教授は、この二人からも学び、自分の説に組み入れます。
 孟子からは、心を耕して決断力を高めることを説き、次のように展開しています。
 「自分がなにになれるかは、まだ自分でもわからない」という気持ちでいろいろためしてみるやり方だ。どの可能性が自分をどこへ連れていってくれるかはっきりしない。それはまだ知りようがないからだ。けれども、自分自身について、そして自分がどんなことにわくわくするかについて発見できることは抽象的ななにかではない。実践の経験から得たとても具体的な知識だ。時間とともに、想像もしなかった道がひらけ、それまで気づくことさえなかった選択肢が姿をあらわす。長い年月をかけて、きみは文字どおり別の人間になる。
 荀子からは、「あるがまま」がよいとはとはかぎらないと説き、次のことを伝えています。
 わたしたちは常に自分自身をつくり出し、世界をつくり出している。わたしたちも、わたしたちの生きる世界も、もとより人為の産物だ。唯一、自己修養だけが、完全に人間のままでいながら、それまでの自己像を超えることを可能にしてくれる。かしこくつくり出すことの意味がいったん理解できれば、眼前に広がっているすべての可能性に常に心をひらいたままでいられる。
 ピュケット教授の授業は、ハーバード白熱教室で知られるサンダースシアターで、講義資料もスライドも使わず50分間ひたすら熱弁をふるうそうです。
 そこに毎回700人を超える学生が集まり熱心に学んでいる姿があります。
 教材開発やプレゼン資料で魅せるのではなく、話そのもの、教授の熱い思いや信念があるから伝わるのでしょう。

 「自分探しをするのでなく、自分をつくる」

 私はピュケット教授の考えに賛同します。あなたは、どうですか?


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