人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2017/07/19 (連載 第98回)

「悲観は気分に属し、楽観は意志に属す」

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治


 今月のタイトル「悲観は気分に属し、楽観は意志に属す」は、世界3大「幸福論」の1つであるアランの「幸福論」の一節です。
 アランというのは、ペンネームで、本名はエミール・シャルティエといいます。1868年にフランス北部の小さな町モルターニュ・オー・ペルシュに生まれ、1951年にその生涯を閉じるまで、2度の大戦を含む激動の時代に生きました。
 いろんな書物でアランの「幸福論」から1節を引用する方は多くいます。
「悲観は気分に属し、楽観は意志に属す」
 この言葉は、どなたの本で引用されていたのかは忘れましたが、すごく共感したことを覚えています。もう何年も私の机の横にこの言葉を書いて、貼ってあるものですから、いつかはアランの「幸福論」を読もうと思っていました。

 さて、この言葉について、自分の普段の思考パターンを振り返り、妙に納得したものでした。
 気分次第の感情に委ねているときの自分は、「気がめいる」「不機嫌」そしてついつい悲観的な考え方をする。
 一方、目標を描いたり、夢を思い浮かべたりする前向きな姿勢の時は、自分の気持ちに振り回されるのでなく、感情の前に「〇〇したい」という自分の意志が前面に出て、その時の自分は物事を楽観的な考え方をする。
 幸福とは、意志を持って自分からつかもうとすることで得られるものだと、アランは語っている。「悲観は気分で、楽観は意志で」共感できる言葉だと。

 今回のコラムを書くにあたり、テーマを先に決めて、本を購入することにしました。AMAZONで検索すると該当する図書が随分ありました。上位に出てきた5つを上げると以下のようになります。
  1. 幸福論(岩波文庫) 1998/1/16 アラン 著、 神谷 幹夫 翻訳
  2. 今度こそ読み通せる名著 アランの「幸福論」 2016/12/22 アラン 著、 笹根由恵訳 翻訳
  3. アランの幸福論 エッセンシャル版(特装版) 2015/11/19 アラン 著、 齋藤慎子 翻訳
  4. 幸福論(集英社文庫) 1993/2/19 アラン 著、 白井 健三郎 翻訳
  5. 幸福論 2014/7/10 アラン 著、 村井 章子 翻訳
 私は、上記の中では最も新しい訳書である2を選択し、読みました。読み終えた後、さらにほかの情報も得たいと思い、ネットで検索したところ面白い記事に出会えました。
 日経ビジネスオンラインの「『幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ』毎日読むアラン『幸福論』」という記事です。
これは、2012年4月23日から、9月7日まで訳者の村井章子さんが、土日を除く毎日、アランの1節を紹介するという記事でした。この記事が、上記5の図書となっています。興味のある方は、まずこちらをご覧ください。
 » 「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」毎日読むアラン『幸福論』(日経ビジネス ONLINE)  

 アランの幸福論は、いくつかの新聞にアランがプロポ(随想、エッセイのようなもの)を連載し、数千にもなるそのプロポをテーマ別に「幸福論」「人間論」「教育論」「宗教論」と分類して整理したものを書物にしたものです。
 「幸福論」は全体で93のプロポからなります。その日その時の情勢を思いながら、「幸福」について論じているのですから、全体の構成に流れはなく、時折、重複する内容も出てきます。また、やや主張を理解するのに苦しむプロポも見られます。しかしながら、その時代や情勢を背景に記していることを理解すると、納得性は高まりました。
 「悲観」と「楽観」について、そのプロポから抜粋して引用します。
 悲観主義は気分に、楽観主義は意志による。気分任せにしていると、人間はだんだんに暗くなり、ついには苛立ち、怒り出す。このことは、ルールのない遊びをしている子供たちを見ていると、よくわかる。遊びがすぐに喧嘩になってしまうのである。これは、無秩序な力がやがては自分に刃向かうからにほかならない。

 じつは上機嫌などというものは存在しない。正確に言えば、機嫌というものはいつだって悪いものである。だから、幸福は意志と自制の賜物と言える。理性は、機嫌にも意志にも奴隷のように従うだけで、当てにならない。

 人間は、気分次第でとんでもないことを構想する。狂人に見受けられるのは、それを拡大したものだと考えればよい。被害妄想に陥った不幸な人の弁舌には、妙にほんとうらしい説得力がある。一方、楽観主義者の口ぶりはおだやかで、いきり立った人の雄弁とは対照的に、気持ちを和ませてくれる。大事なのは話し方であって、言葉そのものには歌詞ほどの意味もない。

 一方、幸福は見るだけでもすてきだ。幸福ほど目を楽しませてくれるものはなく、とりわけ子供を見ているのは楽しい。それにしても、子供というものはどうしてあれほど遊びに夢中になれるのだろう。それに、誰かに遊んでもらうのを待ったりはしない。たしかに、機嫌の悪い子はふくれ面をするし、どんな楽しみにもそっぽを向く。だがありがたいことに、子供はすぐ忘れる。ところが誰でも知ってのとおり、いつまでも拗ねている「大人子供」もいる。

 さらに私にとってとりわけはっきりしているのは、人は望まない限り、幸福にはなれないということである。だから、幸福を欲しなければならない。そして幸福を作り出さなければならない。

 幸福になるこの技術に、もう一つ有益な忠告を付け加えておこう。それは、悪い天気を上手に使う技術である。これを書いているいま、雨が降っている。屋根瓦に雨の音がする。無数の雨樋がにぎやかにおしゃべりしている。空気は洗われて、塵一つない。豪奢な寝具のような雲が浮かんでいる。この美しさを見逃してはいけない。

 ところが、雨で刈り入れができないと歎く人がいる。そこら中泥だらけになってしまうとこぼす人もいれば、草の上に座れなくて残念だと呟く人もいる。たしかに、そうだろう。そんなことは誰でも知っている。だが不満を言ったところで、悪いことが減るわけではない。家の中まで降り込めてくる不平不満の雨で、びしょぬれになるのが落ちだ。

 そう、雨降りのときこそ、晴れ晴れした顔が見たい。だから天気の悪いときは、顔だけでもぴかぴかにすることである。

 幸福になろうと心に決め、そのために本気で取り組まなければならない。どっちつかずの傍観者を装い、扉を開いてただ幸福を待っているだけでは、きっと悲しみが入ってくるだろう。気分任せにしていたら、最後は必ず悲しみか怒りに変わる。それが悲観主義の本質である。手持ち無沙汰の子供を観察すれば、このことはすぐに確かめられるだろう。

 「気の持ちようで楽観的にも悲観的にもなる」とよくいいます。アランは、幸福になるためには、意志を持ってそう思うことの重要性を訴えます。一歩強い言い方のように感じます。
 思って待っているのは駄目で、意志を持って行動せよと言います。
 最後に紹介した雨降りの時の思い、この思いの訓練をすることが、幸福な思いを獲得することにつながるのかもしれません。
 一時期元気であった日本の政治情勢も、長く続けば必然的に起こる一つの転機がきているのかもしれません。こんな時、この先の日本を憂いて悲観的に考えるのか、楽観的に考えるのかで未来の見方は違ってきます。
 楽観的に考え、明るい未来を構築するために私自身が何をするのか、一人ひとりがそんな思いのなかで行動していくこと。その行動を行っている人が、幸福だといえるのでしょう。

 この原稿を書いている今日は、7月7日「七夕の日」です。七夕といえば、「願い事」。これからの幸せを祈り、そして短冊にその意志を表明し、その願い事をかなえるべく、明日からの行動を誓います。
 私は現在、友人の会社で「社員が元気に活躍すること」を目的としたプログラムのお手伝いをしています。このプログラムが成功すれば、私も含め皆さんが幸せになることでしょう。その成功を願って、短冊に書いてみました。


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