人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2010/11/17  (連載 第18回)

職場の指導にもARCS動機づけモデルを取り入れる

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

 先日、就職活動を始めた大学院1年生と話す機会がありました。

 塾の講師をしていた彼は、個別指導クラスとして、90分間をひとコマとして 3人の受験生を個別に課題を与えながら指導していたそうです。その受験生の中 に、集中力がなく、課題を与えてもほとんど満足に回答できない学生がいたそう です。彼は、どうすればその受験生が勉強に興味を持つようになるか悩み、いろ んな工夫をしたことを話してくれました。

 その彼の工夫の話を聞いていると、アメリカの教育工学者ジョン・M・ケラー が提唱している「ARCS動機づけモデル」に沿った展開をしていました。彼は 教育の専門家ではないのでARCSモデルというものを知りません。しかし、何 とかしたいという彼の工夫は自然と理論に合致していた展開となっていました。

 彼の具体的な工夫を紹介する前に、ARCS動機づけモデルについて簡単に確 認しておきます。

 ケラーは、学習意欲を高める手立てを4つの側面に分けて考えるのが便利だと 定義しました。それは

  注意 (Attention)  ≪面白そうだなぁ≫
  関連性(Relevance)  ≪やりがいがありそうだなぁ≫
  自信 (Confidence) ≪やればできそうだなぁ≫
  満足感(Satisfaction)≪やってよかったなぁ≫

という側面です。この4つの頭文字をとって、ARCSモデルと名付けたのです。

 ARCSモデルは、「授業や教材を魅力あるものにするためのアイディアを整 理する仕組み」として、インストラクションデザインに取り組む人たちの基本と なっています。

 では、大学院生の工夫を紹介しながらARCSモデルを確認したいと思います。 (以下は、塾の講師をした彼を一人称で「私」、受験生をA君と表現します)

(1)最初は一生懸命教えてみた。でも効果はなかった

 興味が持てないのは、私の教え方が悪いと思ったので、一つ一つ丁寧に教える ことを試みました。こちらが一生懸命に話をするので、1対1ですからA君もま じめに話を聞く姿勢を見せてくれました。
 ところが、3人の受験生を同時に見ているので、順番に指導をしながら、A君 のところに戻ってくると、その前に出していた課題ができていません。
 「わからないの?」
 「わかりません」
 そこで、その課題の解き方を丁寧に教えます。A君は真剣に聞いてくれている ように見えました。でも、その次もまたその次も同じことの繰り返しです。A君 は自分で問題を解かず、いつも私の説明を聞くだけになってしまいました。他の 受験生を指導している時にA君の様子を見ると真剣に取り組んでいる様子が見え ません。
 正直、「やる気のない学生だな」と思いました。

(2)1日の始まりは「雑談」から始めるようにした

 私は、どうすればA君が課題に真剣に取り組めるかと考えました。考えてみる と私は、A君が何を考え、どういう生活をしているのかを聞いたことがありませ ん。まずは、A君を知ることから始めようと思いました。
 そこで、一日の始まりは「今日の出来事」を聞くことから始めるようにしまし た。学校での出来事、部活で忙しい様子、家の手伝いなど、A君は受験を控えな がらも、他のことにも忙しい毎日を過ごしていることを知りました。
 そこで、「自分のペースで良いから、『今日はこれはできた』と言えるものを 持ち帰ろう」とA君に提案しました。この提案がきっかけになり、A君の学習態 度は一変しました。自ら勉強しようとする姿勢が出てきたのです。

(3)教えることよりも、自ら学ぶための支援を心掛けた

 90分という時間の中で3人の個別指導をしていますから、A君だけにすべて の時間を割くわけにはいきません。それまでは、A君の時間になると丁寧に教え ることを心掛けていましたが、雑談から始めるようになってからは教えることよ りも学習支援が中心になりました。
 課題ができていなくても、どのように課題に取り組んだのかを確認し、理解で きているところを伝え、そしてA君からの質問に答える形で時間を使うようにし たのです。すると、他の受験生を指導している最中も、A君は真剣に課題と向き 合うようになっていました。

(4)学習の目標(ゴール)を設定した

 受験生ですから、もちろん当初から目標はありました。しかし、最初の時点で は、易しい課題も満足に解けなかったので、設定した目標は手の届かない遠い存 在でした。そのため、「どうせ駄目だ」と諦めていたから、意欲も出ない状況だ ったのです。
 ところが、少しずつ前が見え始めると、改めて明確な目標として設定すること ができました。そして、目標(ゴール)と現時点の自分の実力を客観的にみつめ、 どれだけの課題を克服する必要があるかを自ら理解するようになりました。  目標が明確になると、A君の目つきはさらに変わりました。「やるぞ!」とい う意気込みが感じられるようになり、分からないことを「知りたい」という欲求 が強く感じられるようになりました。

(5)そして目標は叶った

 態度の変化が出てからも、一日のスタートは今日一日の出来事の会話から始め ました。これは、私と彼との信頼関係を築く大事なコミュニケーションになりま した。笑顔で話すことが多くなり、「さぁ、今日も頑張ろう」の言葉を合図に、 以前とは見違えるような集中力で、A君は課題に取り組むようになりました。そ して、当初は到底無理と思えていた志望校に見事合格することができました。  最初は、「やる気のない受験生」にどう対処するかを悩んでいたことが嘘のよ うに、A君が私の中で一番育ってくれた受験生です。A君が喜んでくれたことも 嬉しかったですが、私自身が逃げずに彼と真剣に向き合えたことが自分の成長に つながったと思っています。

 ARCSモデルに沿って、彼のとった行動を確認してみましょう。(1)は指 導者にありがちな、「教えることに一生懸命」で「教わる人の気持ちや、受け入 れ準備度」を踏まえていませんでした。「一生懸命教えているのに、真剣に取り 組まないのは、やる気がない所為だ」と指導を放棄したくなっています。

 諦めずに指導の仕方を工夫し始めたのが(2)です。雑談から始めたのは、A 君の理解につながりました。これはARCSモデルの「注意(A)」にあたりま す。人は自分のことを聞いてくれる人に親しみを持ちます。その親しみが信頼に つながり、指導者と共に過ごす時間に興味を持つようになりました。

 それまでは、何とか教えようと「教える」ことが中心の指導から、「自ら学ぶ 姿勢」を尊重しようという姿勢に変化したのが(3)です。「関連性(R)」に あたります。A君の興味あることを中心に指導していくことで、「やりがい」を 感じ始めたのです。

 (4)では、目標を本人に設定させています。「やる気」が出始めた段階で、 本人に目標を設定させている点がポイントです。これは、コーチングでも重視し ているコミットメントに相当します。本人が設定した目標に対し、現状の実力を 客観的に確認して、目標との差を埋めなければならないことを自覚します。自ら 設定した目標とその道のりを確認して「やるぞ」とモチベーションを高めていま す。「自信(C)」につながった時点と言えます。

 最後の(5)では目標を達成しました。「満足感(S)」を得られたことで、 「やってよかったなぁ」と感じることができたのです。この満足感は、A君はも ちろんのこと、指導者の「やってよかったなぁ」との満足な思いにつながってい ます。
 そして、いろんな工夫をしたことで指導者自身の学びにもなっています。

 ARCSモデルを知らなくても、「何とか育てたい」との思いから、工夫した ことで、理論に合致した行動をとっていた大学院1年生の塾講師。職場において も指導の役割を持つ人たちは、様々な工夫をしながら苦労されていることと思い ます。そして、今回の塾講師の例のように、工夫の中から「成果」を得ている方 も多いことでしょう。

 理論というものは、多くの事例の中から共通項を見つけ出し、一般論として定 義したものです。そのため、理論を知らなくても同じような行動をとっているケ ースはよくあることです。

 一方で、職場では今回の(1)の状態で留まっている指導者も多くいるのでは ないでしょうか。理論を理解し、適用することで、(2)以降のステップに移行 できる指導者も増えるように思います。

 職場の指導にもARCS動機づけモデルを取り入れてみては、如何でしょうか?

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