人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2011/07/20  (連載 第24回)

機に応じて法を説く

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

 「教える」「指導する」機会の多い人にとって、「教えた」「指導した」結果 相手の行動が変容するかどうかが気になります。特に、相手が社会人である場合、 既に一定の「自我」が確立しているのに加え、教える側とさほど変わらない立場 であることは稀ではありません。このため、言ったことをそのまま鵜呑みにはせ ず、話し手の意図を深読みする存在であることにも気を配る必要があります。

「3+3はいくつですか?」

 小学生の低学年なら、素直に6と答えるでしょう。しかし、同じ質問を社会人 にした場合、すぐ6という答えが返ってくるでしょうか。恐らく、「なぜ、この 人はこのような問題を出すのだろう?きっと、何か裏があるに違いない」と考え、 質問の真意を探ろうとします。
 聞き手にとって、当たり前すぎる質問は心理的に混乱を招くことがあります。

 一方、まだ習ってもいない難しい問題をいきなり質問することも、学ぶ意欲を 削ぐことにつながります。間違えるかもしれないけれど、正解であれば嬉しいと 思える程度の質問が適切な質問といえます。

「相手に応じた話し、質問をこころがける」

 仏教の教えでは、これを「対機説法」あるいは「応病予薬」といいます。教え を聞く人の能力・素質に相応しく法を説くことを対機説法。病に応じて薬を調合 し患者に与えること、仏教では衆生の素質・能力に応じて教法を説くことを応病 予薬といいます。

 予断ですが、キリスト教は「聖書」、イスラム教は「コーラン」の一つの聖典 を学び信仰を深めていますが、仏教には経典と呼ばれるものが実に3000を超 える数あるそうです。なぜこのような数になったのかというと、お釈迦様の話を お伝えする僧侶が、相手に応じて分かりやすく説こうとしてインドの僧侶だけで なく、中国や日本の僧侶も経典を作られ、それぞれを仏教の経典として認めてい ったからだそうです。「対機説法」の結果、沢山の経典になったということです。

 とはいえ、寺院を訪ねて「お経」を聞く機会があっても、私たち凡人には何を 語っているのか良く分からないのが本音です。現代にあった「対機説法」が望ま れるように思います。

一対一では、「対機説法」を実践できる

 一対一で指導する場面は、職場の上司や先輩が部下、後輩に対して行う機会が 多くあります。ここでは、正に相手の能力・適性に応じた指導が望まれます。指 導者としては、「教えた」「指導した」結果、すぐに期待する行動ができるよう になってもらいたいものです。ところが現実には、職場の指導でも「相手」ある いは「相手の状況」を考えずに一方的に指導しているケースを数多く拝見します。

 「伝えるべきことは伝えた、理解し実践できるかどうかは本人次第」と突き放 してしまっているケースがあります。確かに、社会人である立派な成人を相手に 話をするわけですから、教えたことを学ぶかどうかは相手の責任であることは事 実です。しかしながら、ちょっとした配慮で相手が「その気」になるのであれば、 指導する側の工夫もしてみる必要があるのではないでしょうか。

 極端な例かもしれませんが、2つの事例をご紹介します。
 遅刻を繰り返している社員がいました。その社員に対して上司や先輩は、本人 を心配して遅刻するたびに注意をしました。
「君も社会人になったんだから、社会人のルールを身につけなければだめだ」
 あるいは、遅刻したことによる周りへの悪影響をその都度伝えました。それで も改善されないため、思いあまって上司は人事に相談しました。

「彼は、遅刻を繰り返している。社会人としての常識が欠如している。職場では、 お荷物なのでどうにかしたい」
 すると、人事の人は首を傾げます。「入社してから、少なくとも3カ月間の教 育では一度も遅刻などせず、いやむしろ早く出社して皆に元気良く挨拶していた。 その彼がなぜ遅刻を繰り返しているのだろう」と。また、「そもそも厳しい競争 の中で入社してきた当社の社員で、社会常識がないなどということはあるのだろ うか」とも。不思議に感じまた人事の人が、直接その本人と面談することになり ました。

 面談の結果は、本人の甘えが含まれていることはもちろんですが、次のような 話がでてきました。「仕事への動機付けがなされないまま意義の感じない仕事を 与えられ、自分の存在価値を疑問に持つようになってから、次第に朝も起きられ なくなり・・・」と言うのです。
 遅刻をした人に、一度は「社会人のルール」を徹底することは有効かもしれま せんが、2度も3度も繰り返すのは、社会人に「3+3はいくつだ」と聞いてい るのと同じことになってしまいます。遅刻するようになった原因を探り、対処す ることが望まれます。

退職を申し出た社員を説得する

 ある日突然、上司に退職願を提出した社員がいました。上司は、彼に期待して、 これまでもいろんな場面でその期待を伝えてきたつもりだったので、突然の申し 出にショックを受けました。
 しかし、転職先が決まっている社員を引き留めるのは、容易ではありません。 何とか慰留したいと思い、転職しようと思い立った理由を尋ねても、「仕事での 不満をいまさら言っても仕方がない」と、上司の質問にも明確には答えません。
 すると上司は、今度は何とか転職先を聞きだそうとします。どんな仕事をする のか、その会社の規模は、条件は・・・と。熱意のある上司なら、転職先の条件 まで聞き出すケースも少なくありません。
 何とか聞き出せた上司が決まってする説得のアプローチは、転職先と現在の仕 事の比較です。徹底的に転職先のマイナス情報を考え、伝え、一方現在の仕事は 今は辛いことがあってもそれは君のためであり、これを乗り越えれば明るい未来 が待っていると説得します。

 この説得のアプローチで成功した例を見たことがありません。何故なら、現状 に疑問を感じているために転職行動に出たのであって、現状を解決することなし に今のままで明るい未来を伝えられても、共感できないからです。ましてや本人 が期待する転職後の明るい未来を上司に否定されることは、苦痛であり、反感を 覚えます。そして、転職意思はますます強くなり決意します。
 こんなケースで稀に説得が成功するのは、本人が感じていた現状に対する疑問 が解消するケースです。

 ある社員は、大変明るく振舞い、いつもはつらつと仕事をしているように見え ました。いつの日からか、時折塞ぎこむような様子があり、職場でも気にはなっ ていたようです。明るさが取柄のような人でしたから、まさか人間関係で悩むよ うな人には見えません。そんな彼が突然退職を申し出、困惑した上司は必死に慰 留しようと退職理由を聞き、またやめてどうするのかと訊ねました。
 でも、本人から納得のある理由は聞き出せません。「今の仕事にやりがいが見 出せない」「このまま続けても自分の将来の姿が描けない」などと誰でもいうよ うな理由しか聞きだせずにいました。この上司は、辞めてからの話題にはあまり 触れず、なぜやめたいのか、やめたいと思ったのかを知りたい、その理由を聞い て納得したいと考えました。
 実は、人間関係は良好な人というレッテルが上司にも本人にも障害となってい たことが分かったのは、3時間に及ぶ粘り強い面談の末でした。上司は明るい彼 に期待していたことを何度も伝え、本人もそれを取柄と感じていたのは確かでし た。しかし最近、どうも自分の明るさが職場で浮いているように感じていたこと、 皆に声を掛けて反応してくれる人が少ないことが悩みだったのです。

 人付き合いのよさを取柄にしている以上、本人のプライドがそんな悩みを口に することを拒みました。そこで「仕事にやりがいが見出せない」と言い、現状か ら逃避する選択をしていたのです。
 朝から会議室で二人きりでお茶も飲まずに真剣に話し合っていましたが、上司 も疲れ、中座してコーヒーを買ってきました。コーヒーを勧めながら、それまで とは少し違う姿勢で「君もいろいろ苦労したんだろうな」と声をかけました。
 何とか彼の本音を聞きだしたいと思っていた上司の気持ちが、彼の目線で一緒 に考えようとして出た一言です。この言葉を機に、「実は・・・」と彼の口が開 きました。最近職場で浮いているように感じていること、自分の存在価値がある のかと思い悩み始めたことなどを話し始めたのです。
 「確かにここ最近は、先輩たちの仕事が張り詰めていたので、君の挨拶や話に 応えることが少なかったかもしれない。君の明るさで元気をもらっていたのに、 そんな思いをさせていたとしたら申し訳ない気持ちだ」と上司は、素直に彼に謝 罪しました。この謝罪と自分の存在が認められていたことを確認できた彼は、退 職を翻意して同じ職場で活躍を続けているようです。

 「機に応じて法を説く」とは、まずは相手のことを理解することから始めよと の教えではないでしょうか。


(※この記事は2011年5月23日に「iSRF通信」で配信された記事を元にWeb掲載用に編集したものです)


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