人材育成コラム

“人財”育成のツボ

2015/03/17  (連載 第70回)

時代とともに移り変わる「価値基準」

ITスキル研究フォーラム 人財育成コンサルタント / PSマネジメントコンサルティング 代表

安藤 良治

 3月11日、顧客との打ち合わせにはまだ少し時間があったので、品川駅の駅ナカ「エキュート」の2F「PAPER WALL」に立ち寄りました。書店としては、狭いスペースなのに独特のチョイスでメッセージ性のある本に出会うことがしばしばある書店です。「何か訴えてくるタイトルがないかな?」と棚を見回していると、『20世紀とは何だったのか ~西洋の没落とグローバリズム~』(PHP文庫)に出会いました。私という「個人」を育んでくれた「20世紀とは?」、興味あるタイトルに惹かれ手にしました。著者は、京都大学大学院人間・環境学研究科の佐伯啓思教授で、京都大学における1、2回生を主対象とした「現代文明総論」の講義をまとめたものでした。「あれっ?」と思ったのは、この本の出版は「2015年3月17日第1版第1刷」とあります。出版日よりも1週間も早く書店に並ぶことがあるんですね。

 さて、本の内容は主として19世紀から現在までの歴史的な変遷とその変遷に大きな影響を及ぼした哲学思想を紹介した上で、佐伯教授の見方、考え方を展開されています。とても難解なテーマのように感じますが、大学1、2年生を対象にした講義がベースということもあり、とても平易な表現で展開されています。
 内容をいくつか抜粋しながら、私なりの思いもお伝えしたいと思います。
 西欧近代主義が「ニヒリズム」へと行き着き、それが今や世界を覆いつつある。現代の先進国に生きるわれわれは、かつてなく自由になり、豊かになり、相当程度に平等も達成し、迅速で過剰なまでの情報に取り囲まれ、便利で快適な生活環境を実現してきました。
 しかし、それで本当に、われわれは「善き社会」を、「善き生活」を、「善き人生」を実現できているのか、というとそうはいえません。自由な市場競争がもたらしたグローバル世界は、安定どころか、いつ決壊してもおかしくない危険水域をよたよた歩んでいる、といったほうがよいでしょう。
 佐伯教授は、本書の展開の中で「ニヒリズムとして現代文明を捉える」ことをテーマとされました。
 佐伯教授は、このニヒリズムを定義するために、ニーチェの思想を持ち出します。

ニーチェのニヒリズムの意味――最高の諸価値の崩落

 ニーチェは、近代文明が進むことで3つの最高価値が崩落すること、即ち「(1)目的の崩壊、(2)統一の崩壊、(3)真理の崩壊」これがニヒリズムだといいます。すごくネガティブな表現にとれますが、佐伯教授は「ニーチェのいっているニヒリズムは、決してマイナスの概念ではないのですね」と続けます。
 このように主張するにあたって、ニーチェには彼なりの独特の世界観がありました。それは、この世界はただ「存在」するものではなく、たえず「生成」するものだという考え方です。
 世界はただ「ある」のではなく、生成し、変化していく。つまり「成ってゆく」のです。東洋的な言葉を当てはめると「流転」するものである。
 ニヒリズムという概念も、人間の生きている世界はたえず「生成」するものであり、人間自身もたえず「生成」するものであるとの理解に立てば、充分に理解できる。世界の「目的」にせよ、「統一」にせよ、「真理」にせよ、あくまで世界は「存在」という前提に立っているわけですから、世界が「生成」であるとすれば、「目的」も「統一」も「真理」も崩壊してしまうわけです。
 私達は、今ある社会、現実に起きている事柄をもとに「価値」の判断をしています。「何が正しい(真)」とか、「これは善いことだ(善)」、「美しい(美)」といった判断は、一人ひとりが培ってきた知識や経験から「価値基準」が自分の中に形成され行っていることですが、ニーチェの思想はこれらの価値基準が崩壊すると言っているのですから、その思想が周りに与えた影響は大変なものでした。
 ウェーバーやハイデカーへの影響、アメリカの知識人たちのニーチェ嫌い、イギリス人のニーチェに対する拒絶など、衝撃は大きかったようです。

 佐伯教授は続けます。
 二十世紀の初頭に、こうした思想が力をもった。このことの意味はやはり大きいといわねばなりません。ニーチェの思想を受け入れるなら、近代社会の価値観をわれわれはいっぺんカッコに括り、徹底して疑わなければならないことになる。

 近代社会において当然とみなされている価値、たとえば、自由や民主主義、人間の権利、さらには秩序の愛好、法への従順、誠実といった道徳的価値、そういう価値をわれわれは一度、全面的に疑わなければならなくなります。ましてや、世界の歴史が人間の自由や平等を実現する方向に向かっているというような進歩的歴史観は、何の根拠も持たない。
 ニーチェの思想を語りながら、佐伯教授が現代社会に感じている思いを紹介しています。さらに、現代社会は「真」と「善」が引き裂かれた社会だとして、政治哲学者のレオ・シュトラウスの思想を取り上げます。
 プラトンの弟子で、古来プラトンと対比されることも多かったアリストテレスなども、人間にとっての最高の「善」なる生活は、物事を観照して「真」なるものを知る「観照的生活」にあるとしています。つまり、「善」と「真」は一体のものであり、「善」と乖離した「真」などはありえなかったのです。
 ところが、近代になって、その「善」と「真」が分裂してしまった、とシュトラウスは語る。
 科学であれ政治であれ、本来、超越的な価値に包摂され「善」と一体となって追求されてきたものが、価値から分離独立し、価値を問わないものへと変容していったのが近代だと、シュトラウスはとらえた。それを彼は「近代のプロジェクト」と呼びました。そして、価値判断を放棄した「近代のプロジェクト」運動は必ずや失敗するだろうと、約五十年前の講演のなかで予言した。私も、この考えに基本的に賛同します。その後の五十年間を振り返ってみると、現代社会は、大きくいってシュトラウスが危惧した方向に向かっているのではないかと思います。
 私達は、みな「善き社会」を、「善き生活」を、「善き人生」を求めています。にもかかわらず、現代の向かっている方向がシュトラウスは五十年前に「失敗する」と予言し、佐伯教授はなぜその予言に賛同するのでしょうか。
 「現代の向かっている方向とは何か?」を明らかにしなければこの問いに答えられません。佐伯教授は、このように定義します。
 近代は、神に代わって人間が価値の中心になった。この人間中心主義から、まず生命尊重こそが絶対という考えがでてきた。さらに万人が生まれながらにして自由かつ平等という考えがでてくる。そうなれば、当然、各人が自由勝手な要求をつきつける民主的な政治制度こそ素晴らしいという民主主義礼賛も生まれてくる。したがって、近代社会では、この自由や平等という理念を中心にして、政治制度は民主化されていく。経済では、個々人が自由に自己利益を追求する市場経済が支配的になってゆく。

自由を求めた結果、どうなったか?

 「競争が生まれる」、「過度な競争を避けるために規制を設ける」、「目に見えた成果が求められるため、本来の希望とは異なり、形式的な成果を求めるようになる」。その結果、「自由を目指して自由を失う」事態がいたるところで起きていると佐伯教授は事例を上げて警鐘を鳴らしています。
 何だか悩ましい問題です。でも、その解決の糸口は、前号のコラム「人生論」に書いたことに帰結するように思います。即ち、「個人の勝手気ままな自由を追い求める世界ではなく、互いに他人の幸せを求める世界の確立を目指す」。綺麗ごとのようですが、本当にこのテーマに取り組む必要性を感じます。

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