人材育成コラム

リレーコラム

2011/08/18 (第18回)

改めて、リーダーシップの本義を考える

ITスキル研究フォーラム 理事
フロネシス経営研究所 主宰/富士ゼロックス総合教育研究所 アドバイザリーフェロー

出馬 幹也

 リーダーシップというのは、組織上のトップに立つ者だけに求められる要件で はありません。もちろん、その定義による部分が大きいことは否定できません。 ただ、人によって解釈が違うがゆえに、理解が一様にならず、ときに混乱を招く 要因になっているようにも感じます。

 そこで改めて、そもそもリーダーシップという概念の定義を考えてみました。 人が自らの考えを明確にし、一歩前に出るその瞬間、周囲に強い影響を与える言 動のこと、と定義できるのではないでしょうか。表現がまだ固いので、もう少し “こなれた”定義に変更する必要があるかもしれませんが、意図自体は表現でき ていると思います。

 要するに、「影響力」だと思うのです。その裏に権力や権限の担保を必要とし ない、ただその人が凛として、明確さ・明晰さをもって、他の前に立ち、語り、 動く姿。その所作の全体を包み、放たれるオーラのようなもの。リーダーシップ とはそのようなものである、と私は考えます。

 この考えに基づくと、リーダーシップは年功序列で開発されるものではない、 といえます。例えば、幼稚園児が園庭で遊ぶ中にも、リーダーシップの発現とそ れによるチームワークの形成や、エネルギーのぶつかり合い(いわゆるケンカ) のような図式が充分に見てとれるものです。

 私たち日本人には、戦後数十年の中でいつの間にか意識の外に消してきたこと があるように思います。集団の中で押し上げられるように上に立つことや、大勢 を前にしてしっかりとした自分の意見を主張すること。また、その根底にある自 らの考えを筋道だてて組み立て、分かり易い言葉で表明すること。さらに、その 前提として、自分なりの思いや考えというものを明確に持つこと、などなど。こ れらこそが、リーダーシップの源なのに・・・。

 昨今の社会情勢の中で、望ましいとは思えない現象が次々と発生しています。 とくに、政治経済や企業経営など、社会や組織のトップリーダーとそこに生きる 国民、社員・従業員が“幸せである”とはとても言い難い状況の連続を、これま で私たちはずっと目のあたりにし、我慢をしいられてきたと言っても過言ではな いと思われます。

 これらを生み出したものは、他の何ものでもない、民度でありましょう。まさ しく、わが国民の成熟度とその表出としての責任意識・行動にあることは言うま でもありません。しかし、あまりにもリーダーシップの欠如したトップリーダー が国の中心部分に存在してしまう現実を目の当たりにするにおいて、驚きを通り 越して、無限大の情けなさが漂ってくるように感じます。言い訳のような発言の 山を示すテレビを横目で見て、日ごろは政治に無関心な学生や、高齢者までもが、 深くため息をつく世界を、私たちはそのままにしておけません。

 リーダーシップの本義が改めて確認・共有され、国民に深くそれが浸透し、民 度の高い国家に成長・発展していけるか否かが、次なる10年・20年の行く末を左 右するように思えてなりません。私はこれから、より深く、強く、リーダーシッ プという概念とその本義を日本国民に問いかけていく仕事に、力強くまい進して いきたい、と思います。

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